稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話本pdfダウンロード

稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話

芹生 公男 / 本

稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話本pdfダウンロード - 芹生 公男による稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話はパブフル (2019/1/30)によって公開されました。 これには212ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、4人の読者から3.8の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。

稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話 の詳細

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タイトル
稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話
作者
芹生 公男
ISBN-10
4909510893
発売日
2019/1/30
カテゴリー
ファイルサイズ
18 (現在のサーバー速度は18.6 Mbpsです
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稼ぎもせんと二十年ー辞典作り一筋ー: 高校の国語教師が三省堂から辞典を出版した話を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
辞書愛好家にとって、時代を画する辞典を独力で作り上げた辞書編集者というのは、夜空に燦然と輝く一等星の如きものである。サミュエル・ジョンソン、ノア・ウェブスター、ピーター・マーク・ロジェ、大槻文彦、見坊豪紀……。もちろん、彼らの手になる辞典のほかにも、いわば「極地法」的に数多くの専門家を組織して作り上げられた素晴らしい辞書は数多あるし、常日ごろお世話になってもいる。しかし、「独力で編まれた辞書」を手に取るときに漂う、甘美なまでに充実した深い孤独の気配は、愛好家の脳内にある「辞書野」とか「辞書核」と呼ばれるべき未知の部位を、なにか特別な方法で刺激するようだ。ひとたび辞書を開けば、放たれる強烈な個性──もしくは強固に意志された無個性──に陶然となり、彼らの人生に思いを馳せ(実に上に挙げた著者たちはみな伝記が書かれている)、より良く読み且つ書くための活力を分け与えられたような心持ちになるのだ……と、いうのは、あまりにもロマン過多な書き方だけど、分かる人にはわかってもらえると思う。そんな敬愛すべき独立独行の辞書編集者の列に加わった最新の一人が、この本の著者、芹生公男氏である。『現代語古語類語辞典』(三省堂, 2015)という、この先50年、100年と読み継がれるであろう傑出した辞典を著した在野の巨人が、いかにしてその道に入り、どんな着想と決断と努力の末に完成にこぎつけたのか、ついに自ら明かす……というのが、この本の内容である。これは読まないわけにはいかない。そして実に面白い。卒業論文のテーマを決めるにあたってふと漏らした案(「古典基本語彙の研究」)を、指導教官に強く勧められるがままに実行し、古典の語彙への興味が植え付けられたこと。高校で古文の指導をする中で、『源氏物語』での「死ぬ」という語の言い換えがやたら多様で驚いた(後に完成した辞典で最も多く類語・関連語を収めるのも「しぬ」という見出しである)こと……といった、これじゃほとんど電車道じゃないか、と思ってしまうくらい、今にまっすぐ繋がる若き日の思い出を語るところから、この自叙伝は始まる。しかし、「現代語で古語を引く辞典」を作りたいという着想は、カードを使った編集計画を立てたところで、大きな中断を余儀なくされる。本業である高校教師の仕事(教材研究やら部活指導やら)が多忙を極めたのみならず、「教育改革」などという、一億総監視的ポピュリズムが生んだ暴政によって、人心の涵養を第一義とすべき教育現場から、その主要資源たる時間的余裕が失われ、荒廃の一途を辿るような状況(ちょっと言いすぎか)が現れ、辞書編集に使える余暇はまるでなくなってしまうのだ。そんな状況を打破しえたのは、折よく普及が始まったパソコンの進歩(と教頭への昇進による時間的余裕)のためであった……。という述懐を読んでいて思うのは、著者個人の強固に持続する意志とともに、その伴走者たる時代が生んだ辞書でもあったのだな、という一事である。こういうのも名辞典の条件の一つだと、個人的には思う。その後の経緯(自費出版と望外の反響、金田一春彦先生の激励、あの三省堂からの出版、早期退職したのに一向に時間が作れない苛立ち……)については、本書を楽しみに読んでもらうとして、私がこの本を読んでいてもっとも驚いたのは、『角川類語新辞典』(角川書店, 1981)および同種の「分類体類語辞典」に対して、かなりの分量を費やした辛辣──ほとんど激烈──な批判が書かれていたことだ。評者はどちらかというとこの種の辞典を愛用(愛読と言うべきか)しているくちではある。しかし著者の言うような「引きにくく、網羅性が低い」という、一定の目的下での非実用性は否定できないし、本書で論じられる範囲においては納得できる論になっている。言い換えるなら、不思議と腹は立たない(腹を立てる筋合いもないんだけど)。おそらくは、自著の編集作業中、念のため見比べておく必要があるとか何かで、かなりの回数引かざるを得ない、という状況に直面し、その扱いにくさ(索引も見づらいし紙面から目的の語の位置を特定しにくい)に、ほとほとうんざりした、ということなのだろうと推察するものである。こと「引きやすさ、類語の網羅性の高さ」に関する限り、相手が『現代語古語類語辞典』──敬意を込めて『芹生』と呼ぶべきだろう──では、現行の類語辞典はどれも分が悪いと言うしかない。私はこの批判を読んでいて、『芹生』の磨き上げられたシンプルかつ読みやすい造本設計の淵源を見る思いがした。一方で、本文と索引の分量の兼ね合いだとか、斬新さに傾きがちな造本設計が取られたことに関する推論なんかは、やや穿ち過ぎ(結果の質はどうあれ、もうちょっと信用してあげても……)のように思うし、取り扱いが難しいというハンデを背負ってでも、分類式の類語辞典が用いられる意義については、類語辞典というものの本質──dictionaryとthesaurusの機能の対称性──に由来する反論があるにはあるが、ここでは書かない。「引きやすさ」を楯にとられては貫けないからである。ただ一点、日本語では同綴異義語になってしまう「バス(bus, bath, bass)」が、索引では区別不能になっていて不便だ、という具体的細部の批判については、実質的な増補改訂版である『類語国語辞典』(角川書店, 1985)において、索引に原語綴りが付されることで改善されている、という細部の指摘をするに留める。辞書を論難する以上、なるべく最新の改訂版を参看するのが原則と言って良いはずである。辞書の代替わりを整理せず、実質的な旧版であっても、売れている限りそのまま共存させる傾向のある角川書店の責任という気もするけど(現在では、旧版にあたる『類語新辞典』の印刷版はさすがに終売になっているようだが、なぜか電子版として新たに売られているのは『類語新辞典』の方だったりして、なんかもうよくわからない)。また、これは意地の悪い言い方になるが、これだけ「分類体類語辞典」を舌鋒鋭く批判しておきながら、『芹生』と同年に上梓された『新明解類語辞典』(三省堂, 2015)をその俎上に載せていないのは、やや不自然といえば不自然である。その旧版にあたる『三省堂類語新辞典』(2005)については『角川類語新辞典』の類書として挙げているので、気づいていないこともないとは思うが、版元を同じくする「同期」として、遠慮というか、仁義を切るというか、なにか思うところがあってのことなのだろう(奥歯に物を挟む)。評者としては、『新明解類語』と『芹生』という性質の異なる類語辞典が肩を並べて出版された2015年というのは、「辞書は三省堂」の面目躍如たる大英断の年として長く辞書愛好家の心に留めかつ顕彰すべきだと常々考えていたので、まるで言及されないというのは、なんだか肩透かしをくったような気持ちになった。分類体類語辞典(と「教育改革」に対しても)への念入りかつ舌鋒鋭い批判は、著者の人となりと自著への自負心を知るという意味で、この本の山場の一つと言っても良いものである。一方で、そもそもの本題であるはずの、辞書編集における技術的細部だとか、出版に至る編集作業における三省堂とのやりとりに話が立ち入ろうとするとき、「一般の人には面白くないので……」と遠慮がちに省略されてしまうのは、この本の惜しいところである。市中の書店に並んでいるわけでもない、この電子書籍をわざわざ見つけて読むような読者というのは、「一般の人」の範疇を遥かに超えた熱狂的辞書マニアであるはずなので、ここは思い出せる限りの「微に入り細を穿つ」式の辞書編集の苦労を、紙幅に構わずたっぷり書いてほしかった、と思う。いまから巻末の補論としてでも書いてもらいたいくらいである……というのは、求めすぎだろうか。批判めいたことも書いたが、この本が特異な辞書編集者の一代記として興味深いものである、という事実は決して揺らがない。そしてなにより、『芹生』こと『現代語古語類語辞典』が、『日本類語大辞典』(精光館, 1909)以来106年ぶり、『類語辞典』(東京堂出版, 1955)以来としても60年ぶりに現れた、本格的(東京堂のはやや小著だが)な五十音順の類語辞典であるばかりでなく、見出し語以下の類語をおおまかな年代順に並べるという、小型辞典としてはおそらく世界初の驚異的な構造を備えた、辞書史に残る名著であるということは、いくら讃えても讃えすぎることはないと、あらためて強調したい。これほど充実した内容を持つ大類語辞典が、たった5800円という、中辞典クラスの外国語辞典と同じ版型・価格帯でいきなり売られているというのは、ほとんど無私に等しい日本語への献身じゃないかと個人的には思う。『現代英語語法辞典』(三省堂, 2006)のように、A5版で15,000円くらいの普通版を先に出した上で、小型普及版が作られていてもおかしくないくらいの格の辞書だからである(別に普通版を出すのは献身が足りないという意味ではない。念のため)。そこまでしても、この辞書が思うように普及しないもどかしさについては、僭越ながら100%の共感を持って読んだ。成り立ちから言って、「裏大辞林」のような性質を持った(もちろんそれだけではないけど)辞書であることだし、『大辞林』第四版のドサクサで「知る人ぞ知る名辞書」としてバズって品切れ増刷になったりしてほしいぐらいである。ところで、いささか余談になるが、「シソーラス(thesaurus)」という呼称について、本書中でやや実情と異なる説明が付されていたので、私の知るところを述べることにする。著者は『角川類語新辞典』のような、語の分類体系を設定してツリー式に類語を並べた書物を「辞典」と呼ぶことに対する抵抗感を述べた上で、>けれども、調べて見ると、このような辞典は、欧米では「シソーラス」と呼んで、ロジェの『英語語句宝典』(1852年刊)が有名だそうです。(Kindle の位置No.2068-2070)>欧米ではこの種の辞典を「シソーラス」と言いますが、日本では特別な呼び方はなく、単に「類語辞典」と言います。そのため、本書では、見出し語が五十音順配列の普通の辞典と区別するため、見出し語のないこの種の辞典を「分類体類語辞典」と呼ぶことにします。(Kindle の位置No.2071-2074)と書いている。これは当の『角川類語新辞典』の帯文に、「わが国初の画期的シソーラス誕生!」と(いう売り文句が)書かれていることの影響でもあるし、『類語検索大辞典日本語大シソーラス』(大修館書店, 2003)が書名に「シソーラス」を用いているのも、ロジェに倣った分類式(かつ語釈抜き)の類語辞典であることを明示するためと思われるので、日本においては「シソーラス=分類体類語辞典」という認識が通用していると言える……のだが、それは実は日本に限ってのことである。英語圏で一般に「thesaurus」と呼ばれるものは、必ずしも「分類体類語辞典」になってはいない。アルファベット順に見出し語を並べたもの(表紙にdictionary formとかalphabetical listingとか書かれている)も普通に「thesaurus」と呼ばれている。「呼ばれている」どころか、現行品の数で言うなら、圧倒的にアルファベット順の「thesaurus」のほうが多いくらいで、どうやら形式によらず「類語辞典」の一般名詞として「thesaurus」が使われていると考えたほうが良さそうだ。英英辞典の「thesaurus」の定義を読むと(つまり学問的に厳密な言い方としては)、今でも基本的には分類体のものを想定しているようだし、「dictionary of synonyms」というより一般的な言い方もあるにはあるが、商品名としてはまだるっこしいのだろう。現在も生きている(改訂が続いている)と言える英語の「分類体類語辞典」は、『Roget’s International Thesaurus 7th ed.』(Collins, 2011)という、ロジェの辞典の分家の子孫にあたるもの(今年第8版が出る予定)のみで、他に新品として買えるのは、ペンギン・リファレンス版の『Roget’s Thesaurus』(Penguin, 2004ロジェ直系の子孫の縮約版)ぐらいである(もう一点、『Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary(OUP, 2009)という大物がいるんだけど、一般向きではない)。この二冊以外に「thesaurus」を書名につけられた現行の一般類語辞典は、私の知る限り全てdictionary formで作られている。たとえば学習者向け英英辞典で馴染み深いOxford、Longman、Merriam-Websterあたりが出している「Thesaurus」も、揃って当然のごとくアルファベット順である。さらに厄介なのは、「Thesaurus」というのが類語・同義語辞典の一般名詞として使われているのなら、書名に「Roget’s」をわざわざ入れているものであれば「分類体類語辞典」なのではないか……という推測が、あえなく裏切られてしまうことである。『Roget’s 21st Century Thesaurus』(Delta, 2005)というペーパーバックは、上記の『Roget’s International Thesaurus』と同じ編者(改訂者)の本でありながら、堂々たるアルファベット順の辞書だし、他にもAmerican Heritage、Random House、Webster’s New Worldといった、アメリカを代表する辞書出版社が、揃って「Roget’s」の書名のもとにアルファベット順の類語辞典を出している。American Heritageなんか、表紙に「面倒くさい索引なんかナシ」「不明瞭で混乱したカテゴリーなんかナシ」とはっきり書いてあるぐらいである(意訳)。あっけらかんとしてるというか、英語圏の一般利用者にとっても、「分類体類語辞典」の扱いはなかなか難しい、ということがよくわかる。以上のようなわけで、類語辞典の「分類体」と「辞典体(五十音順、アルファベット順)」との勢力関係については、日本語と英語ではまったく逆の状況になっていると言える。日本の類語辞典界では、「英語圏ではロジェという分類式の辞典がデファクト・スタンダードらしい」という神話が長く通用し、かつ1981年に出た『角川類語新辞典』がヒット商品になったこともあってか、ここ20年ばかり分類体類語辞典が続々と刊行されてきた。しかし当の英語圏では、ロジェの高い権威と根強い愛好家がまだ残ってはいるものの、一般の利用者の求めに応じた「辞典体類語辞典」のほうが圧倒的に普及していて、オリジナル・ロジェの後継者だけが独り分類体の牙城を守っている……というわけである。英語圏というのは、同義語の多彩かつ適切な使い分けを個人の知的能力の指標として重んじる傾向が強い──ノルマン・コンクエストの遺産というべきか──社会である。したがって、学校での作文教育から知的労働者の日常業務に至るまで、類語辞典の重要性は日本の比ではないわけだけど、その彼らにして、より多く用いられている類語辞典が「辞典体」のものだ、という事実は、独り五十音順による本格的な類語辞典を世に問うて気焔を吐くこの本の著者にとって、いくばくかの慰めになるのではあるまいか、と、お節介ながら申し上げて、この小文を終えることとする。

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